●「航空機ビジネス」の推移  1989年4月13日 日経産業新聞記事あり  この飛行機関連の記事は、飛行機にあこがれるマニアな人々を意識して実行したことです。 当時アメリカに行く機会の多かった私は、日本のTV放送でネバダ州の砂漠の中に飛行機の墓場と いえる場所があるのを知りました。 そんな飛行機(飛べなくても)を日本に持ってくれば、博物館や店舗等で大いに有効価値があると 考えたのです。例えば、店に入るとそこにコックピットが展示されていたり羽根がドリンクのテーブルで あったり、歴史的な飛行機に囲まれた空間はデザインに値する場所であると考えたのです。 結局、墓場は軍の管理する場所であり、売買は出来ないことを知りました。しかし民間でも 小型飛行機や歴史的な飛行機を持つ人々がいることを知ったのです。そして交渉の結果、 部品や第2次大戦中の飛行機の売買を可能とさせ、プロペラ等の部品を仕入れて、 この仕事を行うこととしました。 結局この仕事は頓挫したのですがその後、この飛行機に関連する仕事は、民間と言えども アメリカでは軍の管理する部門であることを知ったのです。 その3年後、この件では、アメリカのチェックもあり、航空機のハードウエア技術関係のビジネスは 軍事と非常に近しいところにあり、一般企業が普通に始められるものではない事を知ったのです。 この出来事は、まるで自分のことではないほどの驚きと動揺でした。 (時がくれば、事の顛末を小説仕立てにしたいと思いますのでご期待ください) ともかくその厳しさを痛感しました。(アメリカ司法等絡んだ重要事項ですが今は触れません) 追伸 この時期、私はアメリカでは、ネバダ州のラスベガスにいました。シーザースパレスが 常宿でした。 今でも忘れられないのは、ラスベガスの民間飛行場から小型セスナで民間の 航空機博物館(ノースカリフォルニア)に飛んで、その展示されている歴史的飛行機がほとんど 飛べるものであったことです。 友人と相談し、帰りは、その飛行機の一機「B-25」をチャーターして、ラスベガスへ帰った事です。 映画「パールハーバー」の最後に空母から発信し、日本に最初の爆撃をした飛行機です。 ラスベガスの側には、米空軍最強のナレスエアホース基地があります。私は、B-25の先頭の 銃座にいました。 座席はなく、あぐらをかいて座るしかない狭い場所です。 ダミーの「エクスかリバー機関銃」が設置されていました。エアフォースにマークされたことは勿論、 空港には、多くのパトカーがいました。でも、そんな事が許された時期であったのかもしれません。 今なら「テロ」と間違えられて、撃ち落されるかもしれません。いずれにしても、ただではすまない 事でしょう。 後日の司法の件は、この事とは関係ありませんが、随分「やんちゃ」であったと思います。 B25の往復分のチャーター費用が約束の数倍であり落胆したことも、忘れられません。 ここでゼロ戦再生企画の正式な話がありましたが断わりました。これが後に、日本に里帰りして 日本上空を飛んだ話題のゼロ戦です。